昭和42年05月27日 朝の御理解



 (録音不良)
 私それを聞きながらですね。久留米の初代のご信心を頂こう、現そうと言う事であったら、率先して合楽は、おかげ頂きますよ。けれどもどんなに考えても、久留米の初代の信心を現そうという様な内容でないと。その証拠には、問題にならない様な事が、問題になっておる。本当にそれが信心の材料になる様な事が、信心の材料にならずに、却ってこんがらがった問題が、問題を生んでおる様な状態。
 それが現在の久留米教会じゃないか。と私は思うんですね。三代金光様が、小倉の初代の桂松平先生に、桂先生としては、お弟子さんであります久留米の先生ですね。「金光様私の弟子で、1番弟子と言われる福岡の初代、又は久留米の石橋先生、安武先生あたりの名を挙げて、金光様誰々の信心はどうでしょうか。誰々の信心は、どうでしょうか」と言った様な事をお伺いされた。時に、久留米の初代の時にですね。
 「久留米の石橋さんこそ真の人でしょうな」と仰ったそうです。真の人と。私共が真の道におらせて頂くのですから、真の人にならせて頂く事が先ず、先決なんです。なら久留米の初代の信心を頂く前に先ず、久留米の先生のお人柄、いうなら真の人としてのですね。それを私は、頂きそこの所を頂いて行く事の精進でなからなければ駄目だと。成程石橋先生は大変な御用が出来られた方。
 ですからその御用が出来られた所だけをです。石橋先生が是だけ御用が出来られたのだからああいう御用をさした頂くと言う事だけを、久留米の初代の信心を頂こうとするならとても頂ける筈がないです。絶対に頂けないですもしそげな事しよったらおかげ落としてしまうです。皆んな何故って久留米の初代石橋先生はですね、成程それこそ何時も無い袖の下を振って御用させて貰うと、仰る位に。
 御用に徹底された方なんですけれども。それはそう真の人がそうさせて貰わねば出来なかった。その真が。真心が。そうせねばおられなかった。そのせねばおられなかったとういう、その御用の所だけを、石橋先生の信心を頂くと言う事は、御用を頂く事だと、言った様な、間違っておる様な感じがするのです。ですから石橋先生という方は、真の人だと言われる、その真の人がです。
 どういう様な、信心経路を辿られて、真の人になられたかと。金光様に「真の人ですな」と言わせる程の美しい、立派な人であったかと言う事。本当に心が錦の様な人であったと言う事。久留米の先生の事は、私昔おりました。玉錦という横綱がおりました。その表現で頂いた事があります。玉と言う事は、心でしょう。心の玉です。その心が誰よりも美しかったんです。錦の様に美しかったんです。
 ですから神様がですね。言うならば指名して御用にお使いになったと言う事なのです。いくら御用に立ちたい、お役に立ちたいと言うても汚れかけたエプロンば、どうぞお給仕させて下さいと言うてもそれこそ神様の方がいやと仰るに違いない。神様があの氏子にお給仕をさせてくれと、あの氏子を側に置いてくれと云う様にです。神様が指名してからでも、御用に使うて下さる程しの、おかげを頂く為に先ず私共は限りない。
 私がいう限りなく美しくなりましょうや。と言う所に信心の焦点を置いて、それこそが私は久留米の先生のご信心を現すというなら、その事だと私は思うのです。お徳と言う事は、本当に素晴らしい。本当に素晴らしい事だと度々思うんですけれどもね。ああして今日降るじゃろうか、今日降るじゃろうかと言った様なお天気が、丁度お祭りを終えるまでは降らなかったんですもんね。お祭りが済まわれてもう、御直会の時分頃からポツポツお湿りがあり出した。
 本当にその石橋先生のお徳というのが、いかに天地を自由になさる程のお徳がお在りであったかと言う事を感じます。昨日若先生が帰ってから申しておりましたが、もう人縮み上がった。御直会中に大変久留米は雷様がなったそうです。ほんな教会の横に落雷した。3人も即死者が出たと言う事です。御直会を頂きよってそれこそ茶碗をとり落とすごと、皆んなが男のものが声を上げる程にびっくりする様な落雷だったそうです。
 本当に今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと、言わば教祖の神様が仰るが、本当に今こそ天地の開ける音を聞いて、ここに目を覚まさんかと、言われる様な気がしたと、その言っておりました。親先生の例えば、成程御用御用と言う事がです。そういう美しい玉の様な、錦の様な心がです。そうさしておられる。そうしなければおられなかったのであり、又は神様が指名して、御用にお使いなったんだと言う事をです。だからそげな事言いよる。こげな事言いよる。
 先ずなんと言うてもです。本心の玉を磨く事。そこのところに石橋先生の信心はあるんだと言う事。同時に是は私が何時も申しとる様にです。私の信心をいうならばです。もうそう言う事なんか言う人が無くなったんですね。というのは久留米の先生がおっしゃってある。天地神命とこうおっしゃってあるんですね。いわゆるその天地の心を心としての信心。私が申します。天地の働きを、本当に天地の働きとしてです。その成り行きを大事にして行こうという心なのですそういう根本的な石橋先生の信心をです。
 先ず頂かなければならんが、果たして天地自然の働きと言う物を、どれ程大事にする事に皆んなが努めておるかと言うと、言うてもおらんと言う事ですよね。限りなく美しくならせて頂こうと。真と、真の人というのは、そういういよいよ限りなく美しくならせて頂こうという願いの元にです。信心を進めて行く事なんだ。そこから神様の御感動を頂く。神様の心に通う。その神様の心に通うそれが、おかげに継ながる道になる。
 そのおかげを受けてお役に立ちたい。お役に立ちたいという、念願に燃える信心になる時に私は、愈々お徳は向上して行くばっかりであり、愈々信心のひれいと言う物を、天地のひれいと言う物を、現して行く事が出来るのだと。真と言えば昨日私、ここを9時20分にここを出ました。文男さんが迎えに来てくれましたから、車で高橋さんと繁雄さんと4人で、松岡さんが一人便乗しておりました。
 あちらに着きましたのが、何時でしたか知りませんでしたけれども、私共があちらへ着きましたら、参りましたのと、先生方が出て見えてから、墓前祭があるのと一緒で御座いました。丁度あそこまで参りました時、いわゆる墓前祭を奉仕される、福岡の先生が御祭主、教会長である所の荒巻先生が、副祭主を務められてから、墓前祭が今まさに始まろうとする所で御座いました。
 それでもう、すぐ玉垣の方の、外から拝ませて頂こうと思いましてから、あそこに参らせて頂きました。勿論中には、ご親戚のご遺族の方とご親戚の方が2、3人中に上に上がってお参りをしておられました。鹿児島の行徳照磨先生、若先生の方が、その奉仕をしておられましたが、私がそこに参りましたら、こう手招きされるんです。「あら、これは、椛目んもんが調どそこへ行き合わせとるから、皆んな上がって拝めと、言われるておるのかと思ったら、私だけだったらしいんです。
 私は、何が何か分からんなり、もうそこに駆け着けたばっかりで御座いましたから、早速私中に入らせて貰ましたら、あっちの総代さんがうやうやしゅう私のスリッパを持って来るんですよね。履物を履き替えて下さいと言う訳なんです。こう言う事は、かつて、それこそ面食らった訳ですけれども。そして、お祭りが段々進ませて頂いて、玉串と言う事になりましたら、初代の2番目になられますか、3番目になられますか、今花畑の教会長であられる石橋先生やら、現在の幸雄先生お孫さんですよね。
 当りが玉串を上げられた後に私に玉串を持って見えるんです。是は間違いじゃないだろうかと私思ったんですけれども、とにかく玉串を持って見えられましたから、玉串私奉らせて頂いたんです。本当に感激でした。そしてその事を玉串を奉らせて頂いて、お礼を申させて頂きましたらですね。真が真を呼ぶのじゃと仰いました。そういう例えばですね。それこそあれだけの綺羅星の様な先生方が沢山おられますけれども、先生の中では、私がいわば教師の中じゃ一番若い教師なんですよね。
 ほんなこの間から教師なんですから。その私にです。神様が指名して下さった。言うならば。玉串上げさせて下さったと言う事。恐らく祭主を務められて御座る善導寺の親先生も、吉木先生も「ほうとんでもない奴が出て来た」と思うてびっくりなさったじゃろとこう思うのですよ。全然そのプログラムにない事なのですから。自分がここ上げさせてくれと言うて入ったんじゃないのですもん。そして真が真を呼ぶのじゃ。
 もうどうにもならない事がございますね。今も申します様に石橋先生という方は、本当に「この人こそ真の人じゃなあ」と金光様がおっしゃった程しの真のお方であったと言う事。そんなら私が真の人だからやっぱり真が真を呼ぶかというと、今そうではないけれどもです。なら私が真を本気で追求しておると言う事においては私が誰よりも、私は強いと思うんです。私は。それもです。
 限りなく美しくならせて頂こう。改まりもします。磨きもします。そしていよいよ真を追求しておると言う事。真とは、真とは、というて、一生懸命に追求しておると言う事においては、矢張り私が真を追求しておるから真の言わば真と言われた、石橋先生の御霊様が、私をお呼びになったんだという実感で御座いました。次ぎに、城という字を大きな字で頂くんですよ。土片に成ると書いて。
 そしてご理解にあのご祭事の中に頂きます事が、土に成って成就すると言う事は、人間は必ず土にならなきゃならんのですよ。泥にならなきゃならんのですよ。言わば私が亡くなった時にです。私が亡くなった時に成就する事。成る事。私共の願いが地上に成ると言う事。私共の願いが地上ではないあの世でなると言う事。素晴らしい事だと思うんですよ。私共の願いが地上になると言う事と同時にです。
 私共の願がそのまま、あの世でも成就して行かねばならないのですよ。あの世この世を通してからの、おかげでなからなならんのですよ。土に成ってから成るんだと。いよいよ私はもう是だけで今日のお祭りはいいなと、さえ思わせて頂く位に感激致しました。椛目にご縁を頂く方達がです。本当にその真を追求する、本当に御用が出来なきゃならん。けれども御用すりゃ助かると言った様な、私はそりゃ迷信だと思うんです。お供えすりゃ助かる。そげな事がある筈がない。  
 お供えさせて頂かずにはおられない。御用にでも立たさせて頂かずにはおられない。というその心が助かる原動力なのです。それには、先ず私共が真の人にならせて頂く事を、願いとしなければならない事が分かるじゃないですか。今朝は、私その事ばかっりをもう今日、朝の御祈念を頂かせて頂いて、もう恐らく今までで一番大きなおいさみだったと思うですね。もうそれこそ何時も大きなおいさみ、響き割れる様なおいさみ、本当に文字通りご神前が響き割れる様なおいさみでしたよ。
 本当に真の人にならせて頂きたい。その為に私共は修行をさせて頂くのだ。その為に信心させて頂くのだと言う事。信心のどの様な事を覚えましてもです。先ずそこの肝心要のです。そこん所が願われ、そこん所が成就せずしてです。他の所が成就する。それは、根がない言わば花の様なもの。花は綺麗であっても必ずそれは涸れる。根のあるものならば花も咲く。実りもする。その代り散りもするだろうけれども、必ず次ぎの春には、また花が咲くのである。
 どうでもひとつ真の人を目指し、真の道におりながら、真の道を踏まぬ事と仰る。その真の道を日々教えて頂くのですから。真の道を踏ませて頂いて、いよいよ真の人にならせて頂いて、いわゆる真が真を呼ぶ様な働きになって来る時に、現れて来る勢いと言う物をごひれいという。それを又は、お徳とも言うのだと。真の人にならせて頂く事が、何というても先ず、私は、先決だと思う。そういう意味においてならばです。秋永先生が昨日、播磨さんから頼まれて来たというあれです。
 是から本当に合楽がお役に立たせて頂くならばです。そこんところを押し進めていかなければならない。御用御用じゃない。先ず石橋先生の信心を現すならば、頂くならば、石橋先生という方はどういう方であったか。大変御用が出来られた方。ともう次の次ぎの所を頂かずにです。その御用が出来られる根本の所がです。限りなく美しい方であった。真の人であった。その実行力に富んだおかげがあった。というそこの所を頂かずしてです。石橋先生の信心を頂く事は、出来ない。私はそんな風に思うですね。
   どうぞ。